麻雀散歩

一昔前迄と異なり昨今は広く市民権を得た麻雀
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歴史からひも解く日本における麻雀の扱い:明治から令和まで

  • 麻雀Beginner

麻雀は専用のプレイルーム(雀荘)の店舗が全国各地にあるなど、日本における麻雀の扱いはメジャーなテーブルゲームの一つとして認知されています。
しかし、現在のようなスタイルが確立されたのは戦後以降といわれています。
麻雀がどのようにしてメジャーなテーブルゲームになったのか、またこれから麻雀はどのようになっていくのかについて解説しましょう。

日本ならではの麻雀が始まるまで:中国発祥の麻雀

中国発祥の麻雀
麻雀用語を知っている方であれば、このゲームの発祥が中国であることはそこまで疑問に思わないでしょう。
実際、麻雀の歴史は古く、1368年から1644年まで存在した中国の王朝である明(みん)の時代にさかのぼります。

当時遊ばれていた馬弔(マーチャオ)と呼ばれるゲームが麻雀の原型とされており、現在のような牌ではなく紙のカードのような形をした物を牌として扱っていたようです。
その後、類似のゲームで牛の骨や象牙などで作られた牌でプレイする骨牌(クーパイ、こっぱい)と融合して現在の麻雀スタイルが完成しました。

しかし、あくまで中国独自のゲームであり、海外に伝わることはありませんでしたが、牌を整理して役や点数をきちんと取り決めるなどルールの整備がされていったのです。
そして、明の時代にお茶や禅宗など様々な文化が日本へ伝わったものの、日本における麻雀の扱いは皆無でした。
その後も日本と中国は貿易などでかかわりを保ってきたものの、麻雀が日本で普及することはなかったのです。

明治時代にアメリカから麻雀が伝わり日本における麻雀の扱いが変わる

アメリカから麻雀が伝わる
しかし、明治時代になって変化が起こるのです。
アメリカから麻雀が日本に伝わってくるという珍事が起こり、そこから日本における麻雀の扱いが変わり、民間へ一気に広まりました。
地理的な関係でいえば中国から日本へ伝わるのが自然な流れといえますが、なぜアメリカなのかといえば、アメリカでブームが発生して日本を含む全世界へ広がったからです。

きっかけは1893年。東アジアのゲームについて研究していたペンシルベニア大学考古学人類学博物館のディレクターである人類学者のスチュアート・キューリンがある論文を発表したことに始まります。
同氏が麻雀をアメリカに紹介した論文を発表したことでアメリカに麻雀が知られるようになりました。
その後1919年になると全米で認知され始めた麻雀は、ついにアメリカで麻雀牌が全米で販売され、それを購入した人々が麻雀に魅力を感じたことで麻雀ブームが巻き起こったのです。

さらにその麻雀ブームを加熱させたのがジョセフパークバブコックです。
同氏は当時アメリカ最大の原油会社であったスタンダードオイル(ジョン・ロックフェラーが経営していたことで有名)の社員として上海に派遣されており、そこで麻雀に出会います。
バブコックはすぐに麻雀の魅力にとりつかれ、アメリカに帰ったのちに1920年9月、本格的な麻雀入門書を刊行します。
それが今でも知られているレッドブックです。

装丁が赤色だったので、レッドブックと呼ばれたこの本は、麻雀のルールが分からず、あるいはローカルルールの乱立していたアメリカの麻雀を一変させました。
時代が空前の好景気だったことも相まって、もともと普及しかけていた麻雀はアメリカで爆発的にヒットすることとなります。
当時から全世界と貿易をしていたアメリカは、すぐに麻雀も貿易とともに広がりを見せ、ヨーロッパでもほぼ同時に本格的な普及が始まりました。
やがて貿易とともに、明治時代の日本へ伝わります。

実際、夏目漱石も朝日新聞で麻雀について執筆するなど、文化人を中心に広がりを見せ、一躍日本でも麻雀の認知度が高まりました。
なお、麻雀牌については中国からの直接伝わったとされており、1909年に四川省で英語教師をしていた名川彦作が帰国した際北海道の樺太で同僚や生徒に指導することをしていたようです。
そこから大正期に入ると第一次麻雀ブームが起こります。

上流階級や文化人に普及していた麻雀が大衆にも浸透し、ルールも新聞や専門書籍、雑誌などで紹介されたことで全国的な普及を見せるようになりました。
文化人では文豪の菊池寛が大きく普及へ貢献し、小説「第二の接吻」に麻雀シーンを登場させたり、自身が起業した「文藝春秋」の誌面で人気だった久米正雄や広津和郎といったら作家も麻雀を記事にしたのです。
これによって全国津々浦々で麻雀がプレイされるようになりました。

1927年、昭和になって日本で初めての雀荘「南山荘」が開業します。
これをきっかけに全国で雀荘が開業し続け、その勢いから新設禁止令といった取り締まりまで行われました。
さらに戦争へ突入することで日本における麻雀の扱いは一気に悪いものとなっていくのです。

日本における麻雀の扱い:マイナスのイメージからの復活

戦後、娯楽に飢えた日本の人々は麻雀へ再び目が行くようになります。
リーチやドラといった日本独自のルールが追加され、場末などでも対局が行われるようになります。
戦後の動乱も相まって、博徒なども麻雀を楽しむようになり、賭け麻雀なども盛んに行われるようになりました。

マイナスのイメージからの復活

そんな中、麻雀で生計を立てたこともある麻雀界の著名人であった阿佐田哲也によって「麻雀放浪記」が連載されます。
この麻雀放浪記は、多くの日本人に読まれるようになり、大正以来の第二次麻雀ブームが起こります。
また、同時に麻雀専門誌の「近代麻雀」、タイトル戦の開催やプロ団体の設立、さらに全国の雀荘の復活などの盛り上がりを見せました。

一方で、徹夜麻雀、賭け麻雀、タバコの充満する雀荘、いかさま、素人をカモにして暴利をむさぼるクマ師の暗躍などネガティブなイメージも浸透しています。
これによって徐々に麻雀ブームや人気も下火となっていったのです。

しかし、そういった流れに対して昭和後期から平成になって、健康的な麻雀を楽しむ健康麻雀の運動が起こります。
さらに高齢化が深刻になった平成後期には認知症予防やコミュニティの醸成を目的に麻雀が脚光を浴びるようになりました。

そして令和になり、プロリーグであるMリーグが設立され、透明性のある健全な麻雀の普及を見せています。
戦後からあった麻雀のネガティブな一面に対して日本における麻雀の扱いも変わろうとしています。

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