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【麻雀人物伝】ミスター麻雀と呼ばれた男・小島武夫の生涯を解説

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どんな世界にもミスター○○と呼ばれる大人物は存在します。
麻雀においてもそれは例外ではなく、雀士としてだけではなく、麻雀業界に多大な功績を残した小島先生こと小島武夫(こじま たけお)がそれに当たります。

しかし、偉大な人物であることは分かるものの、具体的にどのような雀士であったのか、功績は何なのかといったことをはっきりと説明できることは意外に少ないはずです。
そこで今回は、ミスター麻雀こと小島武夫の生涯とその功績について解説しましょう。

小島武夫の生涯:福岡時代

小島武夫の生涯:福岡時代
小島武夫は1936年、福岡県福岡市に生まれました。

もともと麻雀の盛んな地域に生まれ育った小島武夫は既に中学生の頃から麻雀に親しみ、そのころから仲間内で賭け麻雀をしていたという生粋の雀士でした。
中学卒業後はケーキ職人として見習いを始めたものの、麻雀への熱意が捨てきれなかったことや麻雀の腕を見込まれて雀荘のボーイへ転職します。

雀荘では、客の相手をしつつイカサマをして客を儲けさせ過ぎない、儲けさせないといったことが求められていました。
そのため、小島武夫も雀荘で麻雀の腕だけでなくイカサマの技術も磨いていき、特に小手返しと呼ばれる技術は非常に卓越していたそうです。
この小手返しとは簡単に言えば、麻雀牌をうまく入れ替える技術です。
捨て牌時に、手出しかツモ切りかを他者に察知されないため仕掛ける技術で、ツモ牌を一瞬にして手牌の一部に組み込み、手持ち無沙汰のときも手牌の端にある牌で仕掛けます。
この技術は、すぐにばれることが多く、一般的には相手とのトラブルに発展することも珍しくありません。

しかし、小島武夫は客からバレないように小手返しを仕掛け、常にバレることはなかったようで、プロになったのちも晩年まで時折小手返しを仕掛けていたという伝説を残しています。
なお客のイカサマに対しては厳しく、自分もイカサマの手の内を知っていただけに度々見破っていたようです。

このころの小島武夫は玄人(博徒)としても活躍し、修羅場をくぐってきたと言われています。

小島武夫の生涯:プロ雀士時代

その後、地元福岡を離れ20代後半で上京し、東京・神保町にあった雀荘「アイウエオ」に就職します。
この雀荘は当時、大衆雑誌などを多く発行し、現在も中堅の出版社として様々な書籍を出版している日本文芸社が経営していた場所であり、一般的な雀荘とは一線を画していました。
その規模は巨大そのもので、地下がレストランで、1階がパチンコ屋、それで2階と3階が200卓以上というものだったのです。

ここで働いていた小島武夫はすぐに頭角を現し、マネージャーとして生計を立てるまでになり、巨大な雀荘の運営を任されることで様々な麻雀関係者と会うようになります。
実際、アイウエオは、有名出版社で今も週刊文春で有名な文藝春秋の創業者、菊池寛が初代総裁を務めた日本麻雀連盟の道場でした。
同団体は、日本最古の麻雀競技団体として知られており、当然小島武夫も大会参加の声がかかります。
ここで雀荘に鍛えられた小島武夫は実力を発揮、初出場初優勝という快挙を成し遂げ、麻雀界での知名度を全国区にしました。

その後、プロ雀士として活動、当時トッププロ雀士として知られていた阿佐田哲也・古川凱章らと麻雀新選組を結成し、各種メディアに多く出演することでスタープロ雀士の先駆者となりました。
麻雀を知らない人でも小島武夫は知っているという声も出るほど知名度を高めます。
実際、テレビをはじめ、書籍、ゲーム、麻雀漫画(かわぐちかいじ「はっぽうやぶれ」)のモデルなどプロ雀士としての媒体出演は多岐にわたっていました。

この知名度を生かして1981年、灘麻太郎らと日本プロ麻雀連盟を設立しました。
さらに第二期麻雀最強戦で優勝してからは、その豪快な勝ち方からミスター麻雀の異名を得るに至り、小島武夫の代名詞となりました。

プロ雀士としての成績は一流ではあるものの、とびぬけた一流ではなく勝率で言えばもっと上の雀士はいましたが、役満の回数は他のプロ雀士を大きく上回ることが多く、記憶に残る勝ち方が取柄です。
もちろん、以下のように様々なタイトルを獲得していることから、一流の雀士であることは否定できるものがありません。

・最強位 (第2期)
・最高位 (第3期・第4期)
・モンド名人 (第5回)
・麻雀グランプリMAX (第1期)
・天空麻雀 (第9回・第17回・第18回)

特に「九蓮宝燈(ちゅうれんぽうとう)」を公式戦で2回行っていることは衝撃的で、2009年5月25日にMONDO TVで放送された「第3回名人戦」においてたった8巡目で和了させるという伝説を残します。
九蓮宝燈とは、同色の数牌で「1112345678999+X(Xは任意の数牌)」の形となるもので、狙っても決してできるものではありません。
プロ野球で言うならば、投手が生涯に2回完全試合をしているのと変わらない成績で、出したら死ぬともいわれる困難な役です。
野球を知っている人からすれば、いかに驚異的な成績か分かるでしょう。

私生活では雀荘を度々倒産させることで借金王としても知られており、2人の女性との間に子供3人を儲けるなど豪快な性格でもありました。
さらに75歳になっても第一線の雀士として活躍しており、小島先生という呼び名も定着していきました。

このように麻雀一筋で駆け抜けた小島武夫は2018年5月28日午前、心不全のため82歳で没します。

小島武夫の功績

小島武夫の功績
小島武夫は麻雀界に多くの功績を残しました。

・第二次麻雀ブームを先導
・日本プロ麻雀連盟を設立
・クマ師の周知活動
・麻雀関連の著書

まず、スタープロ雀士として第二次麻雀ブームのけん引役になったことは有名です。
第二次麻雀ブームとは、1965年阿佐田哲也の著書「麻雀放浪記」シリーズの連載をきっかけに起こったブームで、それを小島武夫の人気が引継ぎ1990年ごろまで続いたものです。

また、日本最大のプロ雀士の業界団体である日本プロ麻雀連盟を設立するなど、プロ雀士の地位向上にも務めました。

さらにライト層がクマ師と呼ばれる素人をカモにする博徒から被害を受けることなく安心して雀荘に行けるように、クマ師の手の内をメディアで解説するなどの活動も行っています。

麻雀の周知を行うべく、多くの著書も執筆しました。
特に1999年発売の「絶対負けない麻雀 読むだけで強くなる驚異の麻雀戦術」は、麻雀書籍としては異例の50万部を超える大ベストセラーとなります。

このように小島武夫は多くの功績を麻雀界に残しました。

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